交流武術研究会 周流

周流についての情報は、交流武術研究会 周流 サイト http://shuryu.info/の「周流とは」「教室案内」をご覧頂ければと思います。それでは。 管理人 おのえ
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試合の結果

 先日あった散打のトーナメント試合について書きたいと思ったのですが、今回ほど試合の持つ意味を感じさせられたことはありませんでした。

何かが現れた。
そんな感じがした試合でした。

このブログでも以前書いたことがあるのですが、私は常日頃思うことのひとつに、会というのは分断された個人の集まりではなくて、ひとつの生き物のような感じがしてなりません。

ダメな時は結局それは、個人がダメという以上に、会そのものの働きに問題があるとも感じられるし、いい時には全体が輝いて見える。

今回の成績は軽量級優勝、中量級準優勝、重量級準優勝、女子優勝というものでした。

6人参加して4人が入賞したのはおめでとうと言いたくなります。

しかし、私はこれは偶然だとは思わないのです。
そして、また成績の善し悪しだけで喜んでいるのでなくて、私は今回の試合は試合に勝つという目的以上のものが、参加した選手の中にあったのを知っているからです。

よく聞く言葉で、『相手に勝つのではなくて、己に勝て』というのがあります。
今までの周流の試合では、相手に向かい合っているだけで精一杯だったこともあり、またもっと深いところでは、相手の気持ちの中に呑み込まれてしまっているところもありました。

しかし、今回はメンタルな部分でかなり努力しているのを知っていました。
そして、その結果が現れたと確信しています。

その努力は一度経験したなら、同じことを経験する必要のないもののような気がします。
それは今まで水が怖くて泳げなかった人が、みずの上に浮かぶ喜びを知ったかのような経験だったからです。

そのような目的意識を持って片時も揺るぎなかった選手の熱意が、周流全体に熱いものを感じさせました。
そして、その流れがこの試合の結果になったと思っています。

だから私は、この試合は成すべき結果のそのものだった気がして、試合の結果を心より嬉しく思うのです。

くも

[周流では京都市の右京区太秦にて太極拳、中国武術、気功、推手、武器術として杖術や短棒、その他、柔術、格闘技、スパーリングなどの武術の練習を行っています。](太極拳)(サイトマップ)(武術・格闘技教室)(柔術・杖術教室)(サイトマップ)(格闘技・スパーリング)(サイトマップ)(周流ホームページ






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こどもの頃の夢



ひたすら生きる。
そして死ぬ時は死ぬ。
最近そう思っている自分がいる。

何だかあれこれ考えるのもめんどくさくて、今あること、必要なことをするだけで事足りている。

しかし世の中どうなっていくのだろうと思わないわけではない。
思うけれども、日々、自分の生き方に背いているわけではないので、この有り様は変えることは出来ない。

今一番思うことは、自分の夢を叶えること。

自分の夢ってなんだ?

私はこどもの頃は身体が小さくて弱かったせいか、大きくて威張ったものが私を威嚇することがあった。
私は負けん気だけが強かったから、そういう奴らにとにかくぶつかっていき、時には悔しい思いをしていたように思う。

それが、柔道や空手や忍術をしているヒーローの姿をブラウン管を通して見ていると、自分の世界がどこまでも広がっていったのを憶えている。

私はいつしか大きく見せない威張らないをスタンスにして、強くかっこよくなりたかった。
だから、大きくていかにも強そうなプロレスラーは私の憧れにならなかった。

今はもう憧れは超えている。
指導していく立場の中で、大きいも小さいもなく、ただ目の前のものにどう立ち向かっていくのかが課題となる。

また、最近では女子が男子とどこまで戦い得るかを意識する。
それは私のこどもの頃の憧れに戻される。
小さきものが大きいものに勝つ。
優しいものが威張ったものに勝る。
やはり、こどもの頃のヒーローは私の中に今も存在する。

周流では女子の勢いが強い。
もちろん優しい人ばかりなのだが、男子以上に武術に対する取り組みの真剣さを感じる。
そして、確実に強くなっている。

人は自分を信じれば強くなれる。
その自分を信じるということは、等身大の自分の姿を自分の目で見れるということでもあるような気がする。                            

[周流では京都市の右京区太秦にて太極拳、中国武術、気功、推手、武器術として杖術や短棒、その他、柔術、格闘技、スパーリングなどの武術の練習を行っています。](太極拳)(サイトマップ)(武術・格闘技教室)(柔術・杖術教室)(サイトマップ)(格闘技・スパーリング)(サイトマップ)(周流ホームページ

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感覚

武術にはいろんな要素が含まれるのけれども、その一つは人を破壊する能力を身につけること。
またそれは同時に外敵から身を守ることになる。

しかし、また一方で人を活かす能力、それはまた自分を回復させる能力にもなる。
武術をしている人で、鍼灸や整体を職業に出来るのも、その活かす能力があるからだとも言える。

破壊することは、自らのパワーが対するもののパワーより大きければ大きいほど可能になる。
体積の大きいものほど有利なのは誰でも理解出来る。

しかし、人を活かす能力は自らのパワーや体積だけでは成り立たない。
そこには人を壊さないという制約や、人を活かすという制約が加えられる。

壊さないけど活かさない、ではなく、壊さず活かすという極めて限られたその点の感覚を要する。

それは本当に難しい。

太極拳という武術の中に、推手という練習法がある。
それは相手のバランスを崩し、相手を倒す。
もちろん、パワーや体積だけで相手を倒すこともできる。
でもそれでは面白くない。
本当に上手な人は相手に力を感じさせない。
精妙な感覚で相手のバランスを奪い、倒してしまうのである。
そこには相手に自分の力を感じさせないという制約や、相手の力の方向を読み取る感覚を必要とする。

格闘技の練習でも同じように、感覚を磨くことを必要とする。
例えば、打撃のスパーリングをする時にも、一方的な攻防ではなくて、相対する人体の感覚を得ようとする。
そしてそのことは、どの点において人体が破壊され、どの点において人体が破壊されないかを理解する。

そういった微妙な感覚を身につけることで、対する人のさまざまな感覚を理解するようになる。
しかし、それは推し量ることでない。
推測は頭で成されることが多い。
それは一瞬で決まる武術や、手の感覚で理解する整体には当てはまらない。
感覚にはタイムラグはない。

私は現代人はこの人体感覚に触れようとせず、自分という鎧の中で警戒心を持った目を光らせ、覗き込んでいるように見える。

感覚の最上のものは解け合うことのように感じるのに。

                              くも

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共栄

書かなくなってからもう随分経ってしまった。
何もなかったわけではなく、むしろたくさんのことがあったような気がする。

何があったのだろう?
今すぐに頭に浮かぶのは、周りの人の変化のような気がする。

私のブログというのはなんだかんだと、私の愚痴のようなものである。
自分の欲求不満な感覚がものを書かせる。

こうありたい、なぜこうなんのだろう、等々・・・
そんな不満を解消しようと、自分自身に言い聞かせながら完結させようとしているのかもしれない。

しかし、最近周りの人は少しずつ自分に落ち着いてきている。
そのぶん説明が少なくなってきた。
ひとりひとりが自分自身に目が向いてきたような気がする。

それは身勝手という目でなく、自分の責任を自分で果たそうとする目のようにも感じる。

そんな目を持った人の中にいると、それは細胞のように目的に対してひとつになれる。

目的というのは何だろう?

武術の会だから武術をすることだろうか?
それは目的というより、一部の現れに過ぎない。

もっと的確な言葉としては、それは共栄するためにそこにいる気がする。
会というのは、何の制約もない。
そこが嫌になればそこから離れればいい。
それが実際の身体の細胞とは違うところだ。

自分の自由意志がその場を必要としているなら、それはその場にある他と共栄する道を選ばなければならない。
それが心地のいいものであるかどうかは、それはひとつの生き物自身が活性化していくことでもある。

たしかに。

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稽古

昨日は杖術の練習日だった。
久々に練習について書いてみようかなと思った。

今の杖術の練習では二つの型を繰り返している。
ひとつは杖の振り上げ振り下ろしである。
つまり打ち付ける、それをいなす練習である。
もうひとつは、突きとそれを払う練習である。

そして、そのどちらも黙々と繰り返される。
とにかく身体で覚えようというものである。

そう言った練習法は昔はあまりすることはなかった。
型練習はあくまでその瞬間の感覚を磨くことに重きを置かれていた。
しかし、感覚を磨く練習というのも分かりにくいものになる。
感覚を頭で捉えてしまうことがあるからだ。

感覚は身体で理解しなければならない。
頭は整理するためにある。

それ故、最近では感覚のことをとやかく言わなくなり、むしろ頭の働きを眠らせるほどに繰り返される。

さて、その結果はこれまた個人差を感じるものになった。
その理由もはっきりしている。
それは型は個人の身体の癖すら許さないほどに、型そのものを正確に成さないといけないのである。

また、周流では型練習のほか、杖を使っての自由な乱捕り稽古をしている。
でもこれは、基本的には型を十分に理解出来ているかどうかの練習でもある。
自由な乱捕りは実践練習とイコールではない。
むしろ型の応用編に過ぎない。
周流で行う型は基本しかない。
自由な乱捕りはその中から生まれ、それを身体が理解しているかどうかを試すための練習である。

少し余談になるけれど、秋葉原で最近起こった多人数殺傷事件は、犯人は武術の経験がほとんどないにもかかわらず、短時間のうちに多人数を殺すことが可能だった。
そして、取り押さえた警官の防刃ジャケット(防弾ジャケット?)には多くの傷が付いていた。
もし、防刃ジャケットがなければその警官も犠牲者になっていただろう。
警官を救ったのは武術ではなく、防刃ジャケットと拳銃と言うことになる。

通常どの道場でも同様だと思うが、武術を生き死にの実践の場に持って来るには無理がある。
実践を志すなら、実践をするための訓練が必要になる。

ただ、暴力を与える側ではなく、暴力を抑止する側の訓練は周流にとっても必要なことかもしれない。



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