人それぞれという言葉がある。
11月7日のブログに「気づき、反省、そして」という書き込みの中にもそのような思いを載せたことがあるのだけど、私の思いを他者に押しつけまいとしてそれまで生きてきたことへの反省でもあった。
それは周流の主宰としては実に頼りのないあり方だったのだろうという反省であった。
会を運営していると人の問題に常に直面する。
人それぞれ、人様ざまという言葉で、多くの人を受け入れることが出来る。
周流という会は受け皿が大きい会でもある。
何故受け皿が大きいのかというと、道を持っているからである。
道とは何かを言葉や形に表して指し示せるようなものではない。
故に様々なものの中にも内在する。
しかし、道を見出さない限りそれはどこにも存在し得ないものでもある。
人さまざまという言葉の中には人のことは関係ないという意味を持つ。
もし、道を得るならば人はみんな関係してくる。
何をしても、それぞれがそれぞれにあってもその繋がりはひとつのものである。
武術をする。
指導する。
そのさまざまな関係に直面する。
この人にはこのように指し示そう、この人にはこう述べよう、等々。
その先やその根本には同じものがあるにしても、それを知るには目に見える、形が聞こえるものにしなければ分からないことがある。
しかし、それでも実はそのこと自体が虚しく響く。
なぜならば、どんなに例えようがどんなに示そうが、道はその形から遠ざかるからだ。
私は何やら気づきの遅い人間である。
つい先日まで、私が武術をするのもそれは生きるための術だと思っていた。
ところが大きな発見が私にあった。
私は何々のために何々をするなどということは、とてもばかげた理由であると気がついた。
私はただそれをしていただけだったんだと気がついた。
身を守るために武術をする。
しかし、実際には武術をしなければ怪我もしかなったということの方が多いだろう。
なのに武術をする。
痛めた手や足でものを打つ。
そこには形の上での意味はどこにもない。
心や体がそれを休ませない。
もし私が歌を歌うなら喉が枯れ果てるまで歌い続けるだろう。
もし私が絵を描くならば、腕が折れるまで筆を持ち続けるだろう。
何をしても休むことなくそれをしてきたに過ぎない。
ものごとは超えなければ何をしても見いだせない。
なぜならば、道だから。
くも
[周流では京都市の右京区太秦にて太極拳、中国武術、気功、推手、武器術として杖術や短棒、その他、柔術、格闘技、スパーリングなどの武術の練習を行っています。](
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