交流武術研究会 周流

周流についての情報は、交流武術研究会 周流 サイト http://shuryu.info/の「周流とは」「教室案内」をご覧頂ければと思います。それでは。 管理人 おのえ
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頑張って

久々に書いてみました。

本当に本当にみなさんありがとうございました。

これからも頑張ろうと思います。

くも

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行をする

行をする

行という言葉があります。
周流でも冒頭に行について少し述べていますが、ここではそういうことに関係なく、行について思うところを書いてみようと思います。

行という言葉には様々な意味がありますが、その一つにサンスクリット語からくるサムスカーラというのがあります。
サムスカーラというのは潜在印象というふうに訳せばいいのでしょうか?

潜在印象と言ってもそれ自体がわかりにくいことですが、簡単に言えば意識化できないで自分の意識下に潜んでいる意識であり、自分そのものを自覚することなく動かしている自分の意識や行動の元になるものだと考えられます。

実は行をするという時の意味はその潜在意識下にあるそのものを意識の領域にまで持って行き、自分を無自覚に動かしているそのものを意識化させるということかもしれません。

なぜ無自覚に動くことはいけないのでしょうか?
それは、無自覚ゆえに変化しようがないからです。

ある人はことあるごとに悲観的なものの見方をしたりします。
またある人は批判や攻撃性を対象に向かわせます。
またある人は自分には関係ないと横を向いたり、などなど、同じ事柄でも人によってものの捉え方が違い、またその捉え方がベースになり、心身のあり方や物事の推移までが変わっていきます。

仏教ではそういう心の働きを死滅させるための行を重ねますが、それは大変理にかなった方法なのかもしれません。

ただ我々一般人でも誰でも出来る方法もあるようにも思います。
それは、日々の自分の心の働きを見つめることのようにも思います。

例えばある物事に対して自分はそれに対してどう感じているのか、どういう行動を取ってしまったのかということに集中し、自分の行動の癖やパターンを観て取るのです。

同じような行動パターンが読み取れたなら、それが自分の心の働きの元になっているものであることに気づくかもしれません。

そして、それがまたどこから来たのかとさらに深めて捉えることができるなら、その時自分を支配するサムスカーラは自分から少しずつ遠のくようにも思います。

くも


 
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私の本気

私の本気

私はまだ見ぬ自分自身を見たいという気を持っています。
最近までは違ったことを言っていたかもしれません。

それは人の中に自分を見てみたいと言っていたようにも思います。

ある意味、とても傲慢なことを言っていたようにも今感じています。

私にはきっと寂しい部分が残っていたのでしょう。
その部分が私に傲慢な言い回しをさせていたのかもしれません。
素直にこう言えばよかったのかもしれません。

「自分のことをわかって欲しい」と。

今はそんな自分のことをわかってもらいたいと思っていません。

私はまだ見ぬ私自身に出会いたいと思っているのです。

私は一体自分の何を知っているのでしょう。
私は今まで本当の私になれた時がいかほどにあったことでしょう。

時間は続いていきます。
瞬間瞬間に喜びを感じ満たされたその思いのそのまた瞬間に、止まれば、そこには自分はどこにもいなくなる。

まだ見ぬ自分にはドキドキするような未来への期待がある。
まだ見ないがゆえに立ち止まることなくそれに向けて進んでいけばそれでいい。

くも



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在り方

在り方

思いのままに書こうとすると、時により無責任なことを言ってしまいそうになります。
その辺のところは勘弁してもらいながらできるだけ素直に書いてみようと思います。

私はただひとつのことだけは真実があるように思うようになりました。
それは人に伝わるのは人でしかないと思うことです。

何を教えるのか、どのように教えるのかではなく、ただ人と人がそこに居て感応し合うだけのように感じます。
大人の中の子供も、子供そのものも、大人も結局はただ繋がっていくだけのような気がするのです。

それは何もしないというのではなく、何とか必死で一緒にして行くことなのかもしれないし、他に依存することなく、黙々と自分の志を遂行して行くことかもしれません。

私が犯した過ちは同じ目線に立てなかったこと。
同じ目線に立つということは、相手に合わせるということではなく、お互いを高めあうということではなかったのかと反省しているのです。

それはどこにあってもそうでないとダメな気がするのです。

私はいつしか自分の本来の目的よりも立場を優先して物事にあたろうとしていたのかと反省している次第です。

いや、言い訳がましいことを少しだけ言わせてもらえるなら、私は立場の上で物事にあたる姿勢にこそ真実があるとまで思ったことがありました。
立場とは役職です。

私個人は誰それよりも偉いわけでも人様に教えて本当にいいのかどうかまで分からぬ存在なのかもしれません。
ただ、教えるというのが私の立場でその立場(役職)で私はそれに責任を持って挑まなければならないと思っていました。

だからキツイことも時には言ったこともあったかもしれません。
何かをなすために責任を他に押し付けたこともあったかもしれません。

そうこうしながら、いつしか私は人を鍛える人になり、立場以上の存在になろうとしていたのかもしれません。

しかし、現実は何が生まれたと言うのでしょう。
便宜上伝わりやすいことはあったかもしれませんが、ものの本質は何ひとつ伝わらなかったのではないでしょうか?

それは私自身がその本質を見出せないでいたからに他ならないでしょう。
だから、私は私を仕切り直ししないといけないと本気で思うようになりました。

くも

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自分の目的

自分の目的

何度かブログに投稿しようと思いながらも、なかなかその思いがわきあがらないまま時間だけが過ぎて行きました。
その間、実は自分にとっても会にとっても大きな変化が訪れたようにも感じられました。

その変化をブログに書くにはまだ十分にはまとまってないだろうとは思いますが、その中から ひとつだけはっきりしていることを確認しました。

それは子供を育み守れる会にしたいということです。

それは周流発足当初からの願いであり、目的でもありました。

発足当初、私はこう考えていました。
それは子供を守るためには大人を変えていかないとダメだ。
大人が子供を作る。
大人が子供を傷つける。

そういう思いが強く、私は大人を対象とした会作りを始めました。

しかし、私がどれほどのことを成してきたのかと思うと、今更ながら疑問を感じてなりません。

確かに大人の中の子供には随分向かい合いました。
どんなに向かい合おうと、なかなか溶けることのない大人の中の子供を常に感じながら、いつの間にかただの大人として、上から目線をその大人の中の子供たちに向けていたのかなと最近大いに反省させられ、もう一度本気で自分を立て直さなくてはと思うようになりました。

くも

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変化の時

会をしていると幾度か変化の時を感じたことがあります。
熱心な会員がいろんな事情で練習に来れなくなったのも、会にとっては変化の一つでもあります。

数年前には一つの大きな練習場をなくしてしまいました。
それに伴い何割かの練習生がこなくなったこともあります。
ああ、何かが変わりだしのだろうか?と思ったりもしました。

確かにそれ以前とそれ以後では会員数は減少しました。
まあ、そういった感じの変化でした。

しかし、今回の変化はそういうものではなさそうな気がします。

若い時は頭も柔らかくていろんなものに影響されてどんどん自分が変わっていくのを感じていました。

しかし、私の場合は自分流の現実を探していたにすぎないといった感じだったようにも思います。
自分流の現実というのは、言い換えれば自分の幻想に向けて歩き出すという感じで身勝手な現実の上を歩いていたのかもしれません。

それはそれで現実だったのでしょう。
しかし、その現実は小さなまとまった世界を作り出しただけで、それは何時しか閉塞感を持ち衰退していくのは必然なことのようにも思います。

では、自分流の現実でないというのはどのような現実なのでしょう。
 それをこれから探求してみようと思っています。

くも




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解き明かす

 単純に私は解き明かすことが好きなのだなあと感じることがあります。

今まで武術をしてきたことでも、出来ないという自分の状態を出来るという状態になるためにどうすればいいのかを、自分の理論と思いを元にして解き明かそうとしてきたのかもしれません。

もちろん、たくさんの著名な武術の先生方にもお世話になりましたし、多くのご教授をいただきもしました。
それもまた解らないことへの探求だった気もします。

ただ、多くを理解することや、そこに到達する前提にすでに自分の思いが横たわっていることも知ってはいました。

簡単に言えば、思っているからそれが出来るようになったとか、思うようにことはなっていったとか、そんなふうに感じることが多かったのです。

それは普通とてもいいことのように思われるかもしれません。
事実私自身もそう思っていました。

ところが最近はそれを喜んでられなくなりました。

自分の理想はあくまで自分の欲得に関わる希望に結びつきます。

あの人と結婚して幸せになりたい、と思っていてもその人と結婚して幸せになれるかどうかはわかりません。
だいたいこんなんでいいんじゃないかな、と自分の人生を肯定的に捉えても、その先にある幸せになりたいという願いが本当に叶うためには、結婚するまでに思っていた幸せになりたいというイメージを根底から崩してしまうほどの多くの試練が、その為に降り注がれるかもしれません。

そういうことを前提にしてでも思えることだったのでしょうか?

自分の本当の理想や願いが成就するには、自分の抱える業(カルマ)に向かい合わなければならなくなり、それが壁になり本当の自分の願いや希望を見捨てなければならなくなるのではないかと、最近はよく感じます。

いつも壁の前で尻込みしてしまう。

しかし、私はこうも思うのです。
壁を作っているのは、自分でしかない。

壁の向こうにあるというドロドロしたものはすでにこの現実の自分を支配している。
そのことに目を向け、それと向かい合わない限り、私の願いは自分のカルマを増幅することにしかならないのでしょう。

それは必ず自分を苦しめ、自分の本当の理想から自分自身を遠ざけてしまうことなのでしょう。

あるがままの自分を受け入れるという探求こそが、私の今の課題になりそうな気がします。

くも
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指し示されるもの

今後の合宿はどうすればいいのだろうかということをそこに居た数人で立ち話をしていました。
そして、話しているうちにどんどん面白くなっていました。

何が面白いのか?

それはそのことについて話が存在していることが面白かったのです。

合宿をすることの意味、その自覚を誰がどう感じ見出しているのだろうか?
そんなことすら本当は誰も知り得ないことではなかったのではないでしょうか?

そんなこと、誰も問題にしなくてはいいのではないでしょうか?

そう、どうあるのか、それは誰も何も今のこの時点で本当にわからないことなのだと思います。
そうなんですよ。

何もわからないそのものがそこにある。

わからなければ何もなかったことにはならない。

でも、何かあったからそこにそれがあったのだろうと思えるのです。

そして、それがなんであったのかと何も確認する必要はないとも言えます。
あるとも言えるけどないとも言えます。

それでも、そこに何かを見出したい、そこに居た自分があったと思うことができたなら、それはとても素敵なことではないかと思ったりもします。

私にとって、実は失敗かもしれないと思っていたことが大きな成功であったと感じることができたのです。

物事は何かを指し示しているのだと感じた瞬間だったかもしれません。

人が何をどう思うのか?
自分の中の漠然とした意識が漠然とした人の意識と交差するとき、その答えは双方の中に見出されるのではないでしょうか。

それ故に人を閉ざすことも自分を閉ざすことも決してしてはならないことのように感じます。

くも

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受け継いだもの

私の父は昭和30年代の後半の高度成長期に大手自動車メーカーの部品の下請け会社をしていました。

まだ零細企業という段階のものでしたが、誰の目からも今後大きく成長していく勢いはありました。
ただ、父はその会社を自動車メーカーの営業マンと激しく喧嘩をして一瞬にして潰してしまったのです。
父はよくそのことを私に話して聞かせていました。
まるで天下を取った人のように自慢げに。

「次の日には大きなトラックが来て機械から何から何まで一式全部持って行きよったわ。」と。

私は何か自慢げな父の言い振りにすごくかっこいい事なんだなと思い続けていたかもしれません。

しかし、父の会社はその後仕事変えをして、それまでに築いていた基盤を失う事になりました。

私の父は私の事を子供の頃から「自分には似ていない辛気臭い子や」とよく叱る事があり、私も父に似てたまるかと自分を自制するようにしてきたせいか内向的な性格が身についていました。

しかし、今になっても私の中に父の血が色濃く存在しているのを感じる事が多いです。
まるで父がここに生きているように私の中でうごめくのです。

それなら、こんな会潰してしまえ。と自分の心が騒ぎ立つ。
しかし、それはなんだろうか?
それは、父が後先考えずにいつも激しい感情の上に自分の心を乗せて自分を生きてきただけで、その周りにある大切な種を育てなかったのではないだろうか?

反面教師という言葉があります。
私は父を反面教師にしようとは思いません。
それは結局父の心の傷に目を向けていないことになるでしょう。
父の心の傷はまた父だけの問題ではないはずです。
それは、私自身の中に根付いている問題であり私自身の問題でもあるからです。

くも
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合宿での役割

前回のブログからですます調に変えたというのと、何だかいつもの内容と違って差し障りのないいい子ちゃん的な、感じがして変だなあと思ってしまったのは私だけだったのでしょうか?
おまけに、署名も間違えたので、それは直しましたが。

ですます調にしたのは、ひとつには今までの調子ではそれはあくまで自分だけに向かい合っている感じがしたからです。
しかし、向かい合っているものは自分とそれを見ている人に向いているというのを自然に自然に感じるようになったからです。

以上

でありながら、前回の合宿についての続き。

合宿の目的は何だったのか?
私は今回の合宿は人のつながりをテーマにした筈でした。
それで「集い」としました。

ここしばらくの間の私の中の変化ではっきりしてきたことがあります。
それは人のつながりこそが、自分を大きく成長させてくれるということでした。

それがどんなつながりであるのかについてはじっくり書き記す必要もありますが、今は合宿を経験して感じたことをここに書こうと思います。

私の変なところがここにも出ていたのかと今更ながらに感じてしまいます。
それは、私はこの合宿をある意味ひとつの目的に向けていたのではないかと認識したからです。

それは、周流の中身を鍛えるためにその中心メンバーに至らぬところを鍛えてもらいたいと思ったからです。
この合宿をどうまとめ上げるのかというのが、私の中に曖昧に残っている感覚でした。

幹事は幹事の役割をどう果たしていけるのだろうかという思いが私の中にありました。
それは、人とどううまくコミュニケーションをとればいいのかという、彼自身の大きな課題を丸ごとそこにぶつけていったのだと私は思っています。

そのことでこの合宿が失敗したとしてもそれはそれで仕方がないとまで思っていました。

それらのことについては、私は全てにおいて正しい判断だったと思っていません。
言い換えれば根本的には間違っていた。
私の基本概念が間違っていたと思わざるを得なかったのです。

それはどういうことなのかといえば、私こそが多くの一人ひとりに目を向ける意識にかけていたのではないかと思ったのです。

私の中にある周流には、私そのものの意識と共有できる意識を深めていきたいという思いが心の底に常にうごめいていたように思います。

それ故に中心に据える人の中は、私と同じように物事を見、行動できる人であって欲しいと思っていました。

それ故に周流を全面に背負った時に見えてくるものは全く違ったものになる筈なのにと思っていました。

しかし、あらゆる意味においてそれは違っているのだと今は感じます。

それは
周流という偶像したものに私はどこにもないからです。
私は私で、人は人なのです。
その目的がなんであるのかは、自ずとそこに集まっている人がどういう目的でそこにいるのかだけがはっきりした答えなのだと思っています。

私はただそこにいる人と感じるままに精一杯接するだけなのです。
それはもし、周流という場以外での触れ合いがあったとしても、私はただ私というものがその人とそこで触れ合うべき触れ合いをしているだけのことなのです。

くも
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