交流武術研究会 周流

周流についての情報は、交流武術研究会 周流 サイト http://shuryu.info/の「周流とは」「教室案内」をご覧頂ければと思います。それでは。 管理人 おのえ
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柔術

今日、新たに柔術のスパーリングの時間が始まりました。
木曜スパーリング教室の一つの時間ですので、出来るだけ自由にスパーリングをこなせる練習形態にしていきたいと思っています。

実はこの柔術の時間を設けるに当たって、是非にという話は以前からあったのですが、なかなか踏み込むことが出来ませんでした。
それは、柔術に関しては長年型稽古を主体にしてきて、その中で線のとり方、力の抜け方、攻防のタイミングなどを事細かに反復してきた歴史があったからだと思います。

そういう流れから、今はやりのブラジリアン柔術のごとく、また意拳や、太極拳などのような自由推手のように、攻防を主にした流れをどのように組み入れていくかなど、結構新しい枠組みを見出していくことに考えさせられました。

しかし、私は型にはめられた動き、型にはまった動きより、自由で伸びやかな動きの方がすきで、推手にしても打撃の攻防にしても、お互いが目的を遂行していくために自分自身を精一杯出し切ることは気持ちのいいものです。

ところが、長年武術をしていると力みのある動き、無駄な動き、目的のはっきりしない動きなどがやたらと目に付き、自由は結局その人の枠の中にしかないとも思えてきます。

そして、その枠を持ったもの同士のぶつかり合いは、いいのか悪いのか分からなくなるときもあります。

周流本来の柔術のあり方は、決してお互いの力をぶつけ合わないところにあります。
自分は虚無で相手の力のありように従い、自然の赴くところに動きが生まれます。

しかし、その虚無になるとは何なのか?
自然の赴くとは何なのか?
虚無になれば自然の赴くところが分かるとしても、でも虚無とは何なのか?
どうすれば、虚無に?

などと、机上の空論を持ち出してきても仕方のないことです。
力や思いを否定するために、今ある自分を精一杯出し切ることは、必要なことでもあります。

そして、自由攻防を行うところには、生身の自分と相手がともに存在すると言うことをはっきり認識します。

私が思う自由とは、自分と相手の中に共有する溶け合った力のような気がするのです。

あれもこれもと思うところが先行してきて、まとまりのない文になってしまいましたが、古流柔術はそれ、柔道はそれ、ブラジリアン柔術はそれ、とあるように、周流の柔術もそれを行くことでしょう。

柔術のためのスパーリングの時間が出来たことは、私にとっても周流にとっても大きな飛躍になると信じています。

交流武術研究会 周流は京都市は太秦にて、太極拳を中心に健康体操・武術・護身術を練習する会です。サイトマップはこちらです。
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この記事に対するコメント

自由という言葉がとてもひっかかります。私は自由などあってないようなものだと思っています。
それは私の思う自由は、自分の思うがままにふるまう事、生きることだと思っているからです。
今、私が置かれている環境で自分の思うがままに行動する事は、難しいです。
難しいと思っている自分が自分を自由でなくしているだけなのかもしれませんが。
くもさんの思う自由はいままで私が思っていた自由と違ったので何の事やらさっぱりわかりませんでした。
鴨川さんに解説してもらいなんとなく分かったような気になりましたが本当のところまだよく理解できないです。
ただ、くもさんのいう自由は楽しそうです。
1,2 | 2007/04/29 4:00 PM
コメント有難うございます。
本当に久々で嬉しく思います。

さて、私もほとんどの人は制約された中で生きているようには思います。
その制約された世界は、考えるとてつもなく哀しく息の詰まる世界であるようにも思います。
またある人はその制約から逃れようとして、権力者の道を進みます。
でもどんなに進もうと、自由な世界を外に求める以上、制約の壁の厚さを破ることは出来なかったのでしょう。

しかし、さまざまな制約を受けながら生きている奴隷のような我々庶民は、この世界の中で本気で笑い、本気で泣き、本気で楽しみ、やっぱり本気で落ち込んだり・・・

でもそうあれることの自由だけは、制約することが出来ない本当の自由だと思うのです。

私は多くの時間を武術に関わっていますので、武術をしているときというのは私にとって本当に自由でありたいときです。

そして繰り返し言いますが、自由を得られるときというのはそのものに対して、本気で向かい合っているときなのです。

へなってはいられない。

くも | 2007/05/01 12:53 PM
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